2025.10.13 Vol.63
「The Emerald Beginning of Qualia Slope Part.4」



秋に似つかわぬ日中の装いにより、
自らが秋を律し纏う。
早朝はのっそりと追いかけていくるが、
言い訳を逸らかすかのような、
疑うほどに清らかで灰色を含まない青空。
全てが帳尻を合わせるように、
季節と似つかわぬ
キッチュの構図を模している。
地上は目下炎天下である。
装いも順じて秋を纏いたい。



オオスズメバチのアクティベーションや
併走にも熟れてきた。
恐れられる彼らへ何かを示さなければ共存は可能。
決して怖がることはない。
自然界の連鎖循環に
役割を持った君も筆人も居る。
球体循環は各層を
確か仄かに波動を奏でる。

大濠公園の池が風の動きと
共に波立ちをSinkさせながら、
アカトンボの夫婦が風の流れと
共に愛を裳して揺蕩う様に
目線を揺らがせ沿う。
時折感じる金木犀な一区画へ
数秒のファストノイズアタッチメントのような重みを
中域の粘膜で感じる。

とはいえ、全てを未だ秋で受け止められないのだ。
そして気候の気候構図や周期も準じて
タイムラインが遅延している。











クオリア坂には仄かにバスの発着音が
砂時計を環境音として
不規則な規律性を保ち、
瞑想を澄ました時間を
バスの機械的なNeで感じる。
子供達の登下校の声も
広域的な周期で朝と夕方を告げる。



Quien no ha visto Qualia, no ha visto nada.




日常の推移や愁い、
揺らぎが美として美しく、
各々の歩幅の周期の清らかさが
美学として没入出来るのなら、
「意識が高く、美学を高鳴らせる」という意味で、
模造的な他者のクオリアへ
没入する必要はないのかもしれない。

そういう意味では、
クオリアの高鳴りと高貴さに順すると、
誰かが意図的に企画した空間や
そこにあるオブジェクトに
触れる必要が無くなる。
日常へ目の正月を持ち込む必要があるのだ。
見た目だけの美しさなど一部でしかなく、
その見た目に基づく哲学が
インスタントな借り物だと
知った時の寂しさは今感じたことではない。
自分が律した基準のクオリアが
ビーコンでなければ、
著しく追憶へ見失ってしまうのだ。











そして、夜へ更けて、朝へ浸透していく。
記憶のマジョリティを犠牲に、
擬似的な黄泉のホワイトアウトへ身を包む。

そのホワイトアウトの延長線上に
黄泉があるのなら、
謹んでその安住の清らかで
アブストラクトで
墨灰汁色のハートビートの先を
受け入れるのかもしれない。

球体を巡り見た先に、
同じことを考える人がいるのなら、
彼らのクオリアの分解要素だけを
只管ペンフレンドとして語り合いたい。
敢えて会わず、空気と筆体に模した
小さな総合的なクオリアで、
各々の高鳴りを感じられるのがいい。



デジタルを用いて、
感覚的な以心伝心にアラートを設置して、
指定した数年後に
言葉をリープさせるのもいい。
アクセントに今らしく形を模さない
DAO的思考のペンフレンドという
第3世代的なペンフレンドを冥利だ。

純たる月が定点から綺麗に見える様が良い。
意識している以上に
空を眺めなければならない。
視界で見える以上に広い空を懐えば、
煩悩など端ないのだ。