「The Emerald Beginning of Qualia Slope Part.5」
クオリア坂がエメラルドの光質を放つのは
7am前後となる。
福岡の夜明けは遅いのだ。
日本でも指折りに斜光の仕込みに時間を要する。
天気図やアプリに猜疑心を持たなければ、
綺麗に光が落ち、
そのステージを未来の各所へ羽ばたく
ポップスター達が賑やかに降りていくのだ。
朝は確実に瞬いている。
瞬きを綺麗に照らす熟練工な
舞台照明の隊列も見事。
期待を裏切らないのだ。
気温も心做しか湿度の不可思議さへ
迷い込まなければ、
まだ程良き心地よさへの規律を
大気隊列で纏うことが出来る。
福岡では未だジャケットは不釣り合い。
しかし、タイムラインは
秋なのでシャツは羽織っていたい。
シャツはあくまでも肌着だという解釈は
テイラーの文脈では当然ではあるのだが、
此処は日本という意味で甘えている。
一時期は良いシャツは着た後、
すぐクリーニング店に出していたが、
今はスチームアイロンでシャツを愛でることが、
多くの人々のモーニングコーヒーを入れる
ルーティンのようになっている。
パターンだけでなくデザインも違うシャツに
声をかけるように、
シャツへ呼吸を差し込み張りが出る様は心地が良い。
イージーケアという文明力学には
歓喜を感じざるを得ないが、
呼吸の間合いとしては、
寡黙で人に無関心な無愛想さを感じる。
特にリネンに言えることではあるが、
アイロンを当てないことを
美学とする風合いはすぐに分かるし意図するが、
アイロンを当てていないシャツは
シャツでない 萎びた雑巾か別の何かと思っている。
自分のなかでのユニフォームはシャツであるので、
Tシャツというものが時に非常に求めていない以上に
カジュアルなモノに感じてしまう。
仕事の可否を問わず、
アイロンされているシャツを着ていれば、
まずだらしないという印象を与えるのが難しい。
シューズも同じくである。
シューズを見れば、どういう人かは大枠分かる。
人々は常に足元に鏡を纏い、
自らを照らしている。
靴が過度な汚れや佇まいを保たねば、
自らに向けたい、
いや向けて欲しいスポットライトが欲しい
その時に当たることはない。
靴が幸を運ぶというのは、
限りない真実だと思っている。
家人が二代渡って
服飾学校を出ている兼ね合いもあり、
こういう話題や規則という美学だけは
幼少期から染み付いている。
ウタマロとの付き合いも小学校低学年からだ。
それはさておき、クオリア坂を下るにあたっての
最低限の敬意を服で表する。
寝間着で下るなど、
只でさえのアウトローが
清らかな坂を外道へ落としかねない。
もう見れなくなるかもしれない
シオカラトンボを掠め見て、
本当の夏の終わりを感じる。
愛を交わした後の果てに静まる
冬が待ち構えている。
彼らの故郷を辿れば、
何処になるのかを考える。
そして彼らが次に何になるのかも考える。
車窓が巡りゆく社内から見る
ロードフィルムを巻き戻すことは出来ず、
現代になっても巻き戻しが出来ない
人生だけは唯一のアナログ回路。
タイムリープや夢見がちな
現実逃避という手段ですらも、
まだ一時的なリスケでしかなく、
一時停止すら出来ない。
その瞬間に、秘密裏に君のテープが
もうそこまで長くないことを思い出す。
急劇的な後悔が大きく後退り、
何が君への幸せなのかを悔いる。
ある君は、現代の問題へ封殺され、
ふと綺麗にもう居なくなってしまったのだ。
巻き戻しが出来ないテープが
いつ切れていつ無くなるのかも分からない。
そこもいつまでもブラックボックスに模している。
誰しもがロシアンルーレットな
ブラックボックスに振り回され今がある。