「The Emerald Beginning of Qualia Slope Part.7」
気付けば蒼き深緑に末尾が霞み、
凋月のタイムラインが見える。
落としたレコードの針が荒ぶり乱数を企てた
数日前の季節外れは大枠大勢から離れ、
真軸には6amに未だ夜空の天幕を模している。
この福岡時間には酷く安堵を感じると同時に、
夕刻を超えた夜が酷い怖さを感じる。
体温調整の感覚も微妙に差異が生じている。
自宅での所作も一般と呼ばれる
フラットゾーンから逸脱している。
久しく、自宅では仕事以外で服を着ていない。
ノイズキャンセリングされた
脳から放たれた映像を追う。
現実の前述が押し寄せてくる。
四方八方から滑らかに訪れる。
逃げ道の筋が用意されているものの、
週末の歓楽街のような慌ただしさは
もう恐ろしさしか感じることがない。
頭と肩と胸に瓦のような重みを感じる。
自律神経を解さねばと交代浴を試みるのだが、
効果は一時的。
カレンダーにタスクは多数連なり、
早くも霜が降りているが、
深雪連なる自らは、
寝室でホワイトアウトへ身を投じ、
意識に逃げ道を用意する。
スマートフォンにも綺麗な逃げ道を用意していて、
そのアプリやサービスの力学には
大きく感化されている。
スマートフォンという個の対面にも関わらず、
またその他大勢のマジョリティに思考や趣向が
アルゴリズムの大動脈の急加速と連なるのは皮肉だ。
しかし、望むのは獣道にも成らない
道の先の片道切符であり、
その行き方が分からないことも
そこそこに面白さはあるのだが、
苦しむ状況で速やかに処方箋が貰えない患者には、
只の数分が数十分に感じ、
倍数乱数のハレーションを企てる。
数える羊より、気付いたら囲まれ増えていく
羊毛の繊維の数に酔っていく。
まさに羊酊なのかもしれない。
スイッチが切れたように
午前10時から(他者からすれば)
景気の良い音がダイニングに鳴る。
それは虚無のオルフェであり、
微量の日常の空間音楽が鳴る。
意図する、作為された音が鳴ってはいけない。
音楽を営む人間が最も好む音楽が無音とは皮肉だ。
ましてや、自らが放つ音を
ノイズ・ミュージックと評する方も少なくない。
課金して音へ欲を重ねて楽しむ人々は
異常を生気で楽しむだと思う。
音間の無音やパラグラフを楽しむのも悪くはない。
比較的クラシックのように空気や薫りを楽しむ表現も
推奨推する事出来ない美学ではあるのだが、、
ダイニングにボタニカルアルコールに
ソーダを混ぜ気泡させた液体を楽しむ。
味が付いた飲料が極端に好きではなく、
所謂「クリア」な喉越しを好む。
初手は間違いなく黒ラベルを開ける。
黒星が冷蔵庫に常備されていない惨劇には懲り懲り。
類して特化調味料のストックを切らす美学も
断じて許すことはならない。
酔いが善い作用を齎すと、
比較的最近の出来事を思い出す。
それは世の中から僕という存在が消えた数年。
あの頃はある美容院に
2週間に1度通うのが幸せだった。
無頓着だった眉カットを
薦められたのもこの頃。
しかし、誰も僕の姿に気付く方は
今以上に誰も居ない。
あの何気ない時間が幸せだった。
人生の奥底に沈む僕を照らす
ヘアスタイリストとの時間が
何事にも代えがたい時間だった。
何よりもどかしく何者でないニートへ
傾聴を向けたのが彼女だった。
誰にも連絡出来ない、連絡を遮断され、
一部の業界の最たる亜種に玩具にされた暗黒期。
あの時、乃木坂で運命の手綱を握られていたら、
今こんな文章は書けていない。
結果的にそうでなかった。
その場で話したことが、
数カ月後ナタリーでそのままニュースになっていた。
話題を戻し、僕は彼女の夢をある件で
叶えて差し上げたのは数年後。
そんなことを出来るようになったのも、
気付けば僕も歳を重ねたのかもしれない。
酩酊のマインドウェーブを超えた先に、
交感神経が擽られ、
他者を招き入れた調律を欲する。
迷うことなく、真っ直ぐ歩ける
千鳥足でバーバーへ向かう。
数日で自己をリセット出来る
散髪の時間は幸せでしかない。
かつ時間を選ばず、広いテーブルにある
要件を全て払い除けて、
店舗の繁忙期を外した時間に予約無く伺うのがいい。
店舗も僕が来る曜日や時間帯を察してくれている。
つまり、双方も気重ね無くと言いながら、
さり気なく間合いをセッションしている。
以前から散髪の時間を異常な特殊性へ崇めた
僕も狂っているのだ。
散髪から学ぶことは多い。
腕時計やプレゼントの嗜み、
人との距離感、内密な話題、
ホテルでの佇まい、スーツの所作などは
バーバーで学んだ。いや、教えて頂いた。
髪を切るのではなく、所作を整えに行くのだ。
つまり散髪をする人は、ある意味人生における
ターニングポイントに寄り添えなければいけない。
表層的かつ技法的な
ライフスタイルの洒落などどうでもよく、
結果的にはライフスタイルにおける
ボキャブラリの有無で決める。
DJとヘアスタイリストは良く似ている。
世界観で選ぶのが良い。
かつシューズや衣類の手入れに目が届く方は尚良い。
こういう方々はマルジェラを
持っていて来ていれば
お洒落と褒めない。
収入に見合う容姿を保っているかの
身の丈の基準を見ている。
ブランドやロゴに着せられたモノは様式美ではなく、
あくまでもロゴと広告費による
担保で品位を保身しているだけに過ぎない。
そのうえで、どういう素材のどういう時計を
選ぶべきかも教えてくれる。
僕は心酔して其処の指折りのお得意様になり、
通い続けた。
教えていただいた知見は、
メモしている。
気付けば、ほぼ全ての趣向が
テンプレーティブになるなか、
ニッチな趣向もマジョリティになるなかで、
何が個性なのかが見いだしにくい。
もう鼈甲がお洒落で鯖江で仕立てられた眼鏡がいいとか、
時代背景故に出来たピグメント染めの良さや
日本製の時代背景だから出来た良さを
基準に話すことが無くなっている。
概念やアティチュードで指針を選ぶことがなく、
比較的盲目的に埋没的だ。
それを否定することもない。
著しいマジョリティであり、
自らのような世代と反する擬似的懐古主義者のクオリアが
アナキストでしかないと刻むしかないからだ。
酔いが冷めた頃、気付けば髪が仕上がっている。
自分の頭部の香り具合で、
自分の体調も大枠分かる。
今日はさり気なく夜の香りがした。
そして僕は無垢へ整っていく。
そして追い酒を体に入れて文章に浸っていく。
何より、何かや些細なクオリアを
受け入れ優しくなれる気がする。
半年前に受け入れていた服装が気に食わなかった。
他人はそれで良いという良さを酷く受け入れられず、
即座に可燃ごみへと衣類を捨てた。