2025.11.3 Vol.67
「Before Worm Passage」


この文章を書くことに振り切れなかった。

所謂先輩方の肩を借りた褌で相撲を取ることは、
僕がその他大勢多くを嫌う
アーティストと同じだからだ。
今回は所謂ただの「借りてきた」イベントという
企画ではない。
それは「強く」此処で前述しておく。


この文章を書くキッカケとなったのは、
横山健さんのBlogからだ。
音声配信と重ねて文章を連ねる美徳を
示して頂いたことへの謝辞が尽きない。



さて、Worm Passageの開催の前日となっている。
会場のフロム中武は僕の前職の職場であり、
今回から完全協賛という形で
フロム中武の社歴からしても
異例中かつ特異奇劇な関わりである。
名の有る大手企業すらリ
ストラやコストカットに勤しむ中に於いて、
「drowsinessに投資することが、
未来への価値」に類する言葉を頂いたこと、
付随する話題が大きく突き動かした。

フロム中武という地場立川を代表する
創業60年を超える老舗企業で在りながら、
僕のようなシーンにも属さず
アナーキーな主義を取り込むことも
通常値による異常なのだ。




これは当たり前ではない。
しかしこれは僕の今の人生でのピークでもない。
虚勢でもなく、控えている全てが語る。
音も身の回りの環境も活動14年にして
ピークを更新し続けているのだ。




22歳、26歳のdrowsiness、
お前は比較的報われるのだ。

22歳、くだらない音楽業界の戯言に巻き込まれ、
お前の身の甘さを突かれてシーンから
リストラを食らった。
突然周りから人が居なくなる。
ラーメンとコンビニのお弁当と
ケーブルテレビだけが希望だった。
先輩方の活躍だけが眩しかった。
辛かった。
SNSを遮断することにした。
望まぬ肥満に苦しむお前は
外に出るのが怖かった。




26歳、ハローワークで何十通も
履歴書を送り断られたなかで、
フロム中武だけが妙な手応えを与えられ、
その面接室のすぐ後ろの席に居場所を頂けた。
「酒と祭りは好き?」と
今は亡き岩本部長に拾われたのだ。


数年寝たきりの僕に1週間の会社勤めは辛かった。
警備の副隊長のOさん(後に仲良くなる)に
「銀行の天下りだと思いましたよ」と言われ、
スーツを来て通った一週間が最も辛かった。
まだこの頃は朝起きるのが辛かった。
遅刻だけしないかが不安だった。


ただ、フロム中武の事務所の同僚や上司、
テナントのスタッフさんも兎に角優しかった。
気付けばテナントの方々と飲みに行くようになったり、
夜の華やかな街に連れて行かれるようになるが、
テナントの方も気にしなくていいと、
当時の営業部長に報告せず、
普通に飲み友達のように遊んでいた。

何より、会社員としての基礎を、
こういう歴史のある硬い会社で
学べたのが良かった。
筋を通すことがどういうことかも学べた。
初めて幼馴染の業者を連れて仕事をした。
夜通し作業員の方に付き添ってお手伝いした。
事務所の椅子を並べて朝を迎えて
シャワーを浴びて会社のタイムカードを押すのが
楽しかった。


岩本部長の目を逃れて、
巡回と称して警備隊長や施設の方々とお茶したり、
みんなでお菓子を食べながら、
「そろそろ事務所戻った方がいいんじゃないですか?」と
内線や監視カメラでサインが出て事務所へ戻るのだ。
その後、その居場所がより増えていくのが内緒だ。
そのときはT課長(当時名称)、
若には大変お世話になった。
事務所内でタバコを更かしながら、
朝まで酒を飲んだのも記憶に新しい。
社長とみんなで事務所飲みしたのもすごく楽しかった。
「こういうときはこういう動きをするのだ」
というのも楽しいし、
テナントの方々も、徹夜するならと
ファミリーサイズの差し入れを下さって、
時折事務所のなかで頂いていた。
(店長の皆さま、有難う御座います。)


体調も良くなるなかで、
僕が至らない箇所が目立つようになり、
会社での居場所が無くなった。
そのときに話を聞いてくれたり、
色々なモノを頂いたのが
○チーフ(当時の名称を今でも呼んでいる)だ。
○チーフは異常な音楽好きで、
そもそもRIDEのTシャツを着て会社に来る人で
クリストファーネメスも好きだったので、
関係性が縮まるのが早かった。
何よりサントーニを履いて
会社に来るなんてお洒落だと思った。

僕が香りに拘り出すのも○チーフの影響。
○チーフが誕生日にDiorのソバージュを贈ってくれたのだ。
お腹が空きがちな僕にお弁当もくれた。
よく本を読んでいた。
なけなしのお金で、
僕も見様見真似で鏡面磨きし、
シャツは全てクリーニングに出 して着ていた。

○チーフと最後まで事務所に残っていたとき
「僕は会社に居続けないほうがいいと思う」と言われ、
実は同時並行でテナントや各部門の方々から
同じことを言われていた。
そして想定していなかった事象と
一生向き合うことが決まり、
もう会社に迷惑をかける訳にはないと会社を辞めた。

そして、「僕が口にしているモノは全て形になる」と言われた。

その後、○チーフが敬愛する
dipのヤマジカズヒデさんを
Takeshi Nishimotoさんにご紹介頂いた。
比較的嘘ではないと思う。

最後の挨拶に行ったときのブランドKは、
僕の精神的な支柱であり、非常に安心する装いだ。
一生物だと思って今も着ている。











それから数年立つ。
僕は前職の方々に甘えかねないので、
僕なりの退路とケジメで
全員連絡先をブロックした。

○チーフとは引き続き連絡を取っていた。
疫病の世論が抜けてから、
僕のライブにも引き続きお越しいただいていて、
ある意味、元上司というよりは
親友というか親のような存在になっていた。
何せ趣味が合ってしまうし、
好きなモノも大概似ているのだ。

今も忘れない東京ガーデンシアターでの
Corneliusのアニバーサリーライブも
一緒に見に行っていた。
気付けばdrowsinessのリスナーや知人と
比較的多く会う現場の一つが
Corneliusになっていた
そこでフロム中武における
新たな取り組みをしたいと打診されたのだ。
奇しくもアンコールの際にトイレに行ったときに
久し振りにお会いしたのがzAkさん。

全ては此処で必然の方程式だったのだ。



















大野さんとの出会いは
比較的偶然が重なっている。

まず、高校生の頃に八王子から京王線に乗って、
ディスクユニオン下北沢店で
Buffalo DaughterのNew Rockを買い、
宇宙のような不思議さを孕みながら、
耳や感性を膨らませていた。

元々中学生の頃からCorneliusに
触れていたこともあり、
不思議なズレを感じていた。
勿論存在は存じ上げていた。

ずっとライブも見にお邪魔していた。
あくまでも観客として。
今は無きNHKのライブビードで
Buffalo Daughterを聴いたことも懐かしく、
一番好きな曲であるDaisyを
アンコールでやったことも覚えている。
今は無きVacantでも大野さんを見た。
SuperDeluxeでも同じく。
その会場で原田知世さんをお見かけし、
「同じ現世に居る方なのだと認識」して、
大枠覚えている。


実は大学生くらいのときにFacebookが流行ったので、
その当時気になっていたアーティストへ
友達申請をしていて、
大野さんにもご申請したときに、
中山晃子さんと僕の大宮ヒソミネの投稿に
いいねを押して下さったのを酷く強く覚えている。




それから時は流れ、
大野さんが等しく敬愛し、
恐ろしいまでに感化されたCorneliusのメンバーになられた。そしてFANTASMAの再現ツアーに参加する大野さん、Corneliusグループを見て夜ふかししていた。
僕があまりにも実家のBlu-rayから離れないので、
母がCorneliusを認知し始めた。












また月日は流れ、2021年頃に偶然が巡る。
OnpaのDOMMUNEの番組の際に
初めてzAkさんに変なことを沢山言った後、
Corneliusへの想いを色々告げていた。

その矢先、Takeshi Nishimotoさんと
音源を作る話があり、zAkさんのスタジオで仕事をした。
そのときにエンジニアは岩谷さんだったが、
zAkさんがアシスタント・エンジニアを
して下さったのだ。
かつ、zAkさんのスタジオが当時の自宅の近くで、
より親近感が湧き、そのときに
Buffalo DaughterのDaisyの話題を話し、
少し距離が縮まった気がした。


そして、大野さんに純粋に
ファンだというメールをし、
その後に

「僕の世代から大野さんや大野さんが関わる音が
好きだと言う人がいないから新鮮」

という言葉を後日伝えられた。




そして、2023年秋、スパラクーアから出た僕は、
drowsinessの活動を長年サポート頂く
onpaの羽生さんに大野さんの紹介を依頼し、
すぐご快諾頂いた。

そして、2024年3月16日に初の共演。
その時、実はzAkさんに音作りを
多大にお手伝い頂いていたので、
本件の取り組みは今回が2回目となる。

初の鍵盤奏者とのセッションは
未知の世界だったが楽しかった。
それを見たonpaの羽生さんが

「音楽業界に入って30年で見たライブで5本の指に入る」

と言って頂いたことも大きく寄与している。
僕も共演出来たことよりも、
今の自分の位置を深く理解するショーとなった。

そしてそれを経て、地元への実質凱旋公演に
お迎えする最良の技法がこのお二人だったのだろう。
既に筋は見えていたのだ。

今年の3月、O-EASTでのCorneliusのライブがあった
Radio Sakamotoのイベントで、
また偶然zAkさんにお会いした。

気付くと節々で良くお会いしている気がする。
ここで次の世代へのバトンが繋がる。
























DJで参加頂く美羽さんとは、
前述のRadio Sakamotoの DJ会場のオーディション枠で
出演しており、
全く面識なくプレイを見ていた。

とても凛とされた姿から放たれる博学さに酷く驚き、
これはPodcastで話したり、
感想を伝えねばならないという現場にいた
当事者としての責任を各所で務めることにした。

とても若いDJ、そして琵琶奏者でもあり、
学者の側面もある彼女は、
まさに文系のエリートの佇まいを含むボキャブラリーは
、間違いなく強みであるだろう。


ある時、羽生さんと美羽さんとお茶をしたり、
美羽さんが関わるアオキレコーズのメンバーの
青木さんも加えて行き慣れた台湾料理に行ったり、
ある時は何故か一緒に古着をディグし、
美羽さんに似合う服装を選ばせて頂いたりした。

美羽さんの憧れは、まさに本件に関わる諸先輩方という。
それなら出て頂く以外に選択肢はなかった。

前述の通り、僕もこの活動以外でも
数えきれない程の方々にフックアップして頂いて今がある。キャリアとしても控えめに言えど中堅となっている。
そういう憧れに触れて欲しかった老婆心が働いたのだ。

美羽さんの年齢くらいの時の穿った僕には、
そんなアーティストの繋がりが無く孤独だった。
美羽さんにはそうなって、
引き続きクリエイティブに関わって欲しい。
学生で味わえる世界と社会のギャップを
楽しんで頂きたいのだと思う。
(学生にしか出来ない学校生活の良さも
より瞬く筈に違いない)

何より、美羽さんは僕と似た経路を感じるし、
何故か妹的な雰囲気があるのだ。
そう感じる人もあまり居ない。
気付けば立派な美羽さんのファンなのかもしれない。





さて、今回のWorm Passageの取り組みについては、
来年以降も行う話題が既に出ている。
来る15周年を迎える来年、
フロム中武チームと何が最良なのかを
考える1年が迎えられるかもしれないということだ。

そして、こんな僕のキャリアで
このような出来事をやらせて頂いて、
ステージで見える以外でも
数十人の人々が動く現場があることが幸せだ。
望んでも出来ないことが積み重なることに
多大な感謝、謝辞が尽きない。
こうやって古巣に戻ることが出来る僕も幸せである。
僕が楽しいと思うことに、
誰かが責任を委ねて下さることも幸せだ。

インビテーションをお持ちの方々は、
ぜひライブをお楽しみ頂きたい。

また、本件のエキストライベントとして
11/10(月)に中目黒でワンマンライブをします。
そちらもまだ予約枠がありますので、
ぜひそちらで乾杯させて下さいませ。

それでは1年7ヶ月振りの東京でのライブを
お楽しみ下さいませ。