2025.12.1 Vol.68
「The Emerald Beginning of Qualia Slope Part.8」
高速に座標をよりフレキシブルに乱雑していた。
気付けば東京、名古屋、大阪、
そして名古屋に戻り、
今も何処かへ向かう最中。
気付けば年末を迎えすぎた今、
日々来年が近づく。
今年という1年が数年、
数十年の重みに感じ、
数年前が遥かテラの向こう側と感じる。
この複数都市に居た時間から福岡に戻るとき、
数カ月のタイムラグが実体験と
身体(ShenTi)に起きていることを感じる。
総括するならば、遥か向こうは程良き形で
クオリアを交わせる程度になったということ。
しかし残念ながら、
より一層表舞台にも所謂シーンにも、
所謂ギタリストとして行うことのほぼ全てに
興味関心が根刮ぎ無くなったということだ。
有難き他者の興味関心の
暖色のビーコンは受け入れたいのだが、
そうもこうもいかないということだろう。
自分のアーティストとしての
クチュールの乱数煩雑さだけは見事で、
それに飽き飽きする自分が酷く此処に居る。
物理的で刺激的なクオリアを
過剰摂取してしまった僕は
偏り過ぎた何かをチューニング
せねばならないと危機を察する。
切り替えられないスイッチを
踏み入れるギアが容易に入らない。
過度なエバキュエートイマーシブからの退避を
物理的な移動で逃れる様は
夜逃げと然程変わらない。
時間軸を無作為に掻き分けた今、
Run Thought These Yesterdailyを巡り辿り、
書斎に座り、今がある。
苦行の様に感じた腰痛も肩凝りも
気付けば取り除き駆け抜け、
然りげ無い今に落ち着く。
車窓という膨大な情報量にも関わらず、
没入的なアンビエンロードフィルムは、
暮れ泥む今を正当化し、
今の日本の旬季を水面や地平、
山脈を繋げ、今の描写を創る。
福岡に還った今、
ようやく社交モードのモーターが切れた。
それには数日を要した。
今回は異常にモーターが回りすぎた。
色味と光彩の変わったビーコンを弱く発していたい。
しかし、自らが求める居心地と環境は
アントニムにアンビバレンスを練り加え、
影のように寄り添い続ける。
クオリア坂は見事なまでに静かさと平穏を保つ。
自らと周囲の荒ぶる粒立ちの荒立ちに動じない。
福岡に帰り、気付くと日の入りの早さに気付く。
そして陽日光に包まれる時間はそう長くない。
12月らしいフィナーレの
序初の所管として悪くない。
書斎で好きな飲料を含み、
静かに時を過ごしている。
滑らかな日々を送ることが知りうる限り、
最も難しい。
極力何もしたくない日々を
送ることが見事であり、
何も触れず、反芻に微量のカフェインを
灯すのがいい。
気付けば近づきすぎてしまった全てを
再定義しなければいけない。
全ての当たり前には反していたい。
歴史も反芻輪廻している前提にて。
フィロソフィーを取り除いた
表層的な意思表示や表現、
理論武装や定義には辟易としており、
リアルと真実の体感と知の探索に於ける
自らの答えを探さない、見つけられないことが
人生に於けることでの負けではない。
しかし何か些細な本質の本流を掴むことは出来ない。
前述数行をサマライズするのであれば、
デジタルのない世界ではサバイブが出来ず、
魅力は全て電子端末にパーソナライズされ、
指南されたものだけ。
デバイスを持たぬ人は
原始に帰結する愚かさに気付いていない。
勉学も一つの手段なのだが、
極めた者だけが語れる
モノクロームの丘がある。
残念ながら、人々は性的趣向以外での
サディズムとマゾヒズムを求め続けた故に、
自らを曖昧にする主義を見事に失い、
テンプレーティブかつ古来における
思想主義者が組織隊列を組成するうえでの
共同監視を酷く望み、
他者を否定することによる
自分を律する皮肉なブランディング
(対立構図を組成したうえでの正義を主張すること)
は言語上での戦争と然程大差がない。
弁論をしようという現代が欲する
ナラティブなディスカッションなど皆無で、
警告射撃無く、
フォロワーという弾丸を要して
、 「数の暴力」により
突然乱射発砲しているのと同じだ。)
久しぶりに限定的な用途で用いた
Xというアプリにおける魑魅魍魎は、
僕が体感したことのない
言語の殺戮惨劇の戦場となっている。
もう過去の産物だ。
人々日々の時事に寛大に
ナラティブで滑らかでなることを望む。
文化という大切な娯楽の暇に、
数の論理を意図的に小狡さで散りばめ、
大衆扇動するのは、
もう一定のカルト宗教と同じである。
危うい。気付けば自らが酸欠を望むところだった。
僕には主義主張思想は一切無く、
そういうモノとは断固として
一線を引き続けることには変わりはない。
諸外国におけるアンケートは「Yes」「No」。
しかし中道という考え方が定義されている。
しかし日本にはアンケートに
「はい」「いいえ」「そうでもない」があり、
曖昧を古来美徳にしていたにも関わらず、
主義主張思考における
「そうでもない」がないことが
文化としての失墜を
際限無く日々生み続けているのだと思う。
賛成や批判だけが表現ではない。
今まさに抽象的な寛容性が
必要とされる世論なのかもしれない。