「Jast a Moment : Curve on Silly Satellite」
座標を現世最良化された
高速で推移させる。
現実的なタイムリープで
60分前に戻るパラダイムを作用させる。
今は既に60分後の通常時の我に戻ろうと
化石燃料を絶えず燃やし前進させている。
同期させていた現実への帰路となる。
小さな空の藻屑となり、耳の中の小惑星。
太陽系の円周図より、
よりmicrocosmが進む
清らかな電子空間。
其処に電子規律正しき清音
"symphony"を
囁かなセルフロウリュのように
些細繊細な一滴を体内へ浸透させていく。
記憶を回想させていく。
回想という回転を円滑にさせるため、
足元ではエンジンが
化石燃料を燃やしているのだから。
6年振りに香港と中国に滞在していた。
疫病大流行後初の海外である。
部分的には変わっていたのだが、
大枠は変わらぬ香港に安堵を感じていた。
13年振りに会った学生時代からの仲間たち。
然程連絡を取っていなくとも、
博愛を規律正しく齎せる中華圏の思い遣り。
それは日本では薄らいでしまった価値観。
列島の外に出て感じる人としての
在り方の多様性と感性の充足感。
明確な意思の基に孤立していた
自分にまるで居場所があったと
再認識させる心地。
自分は所謂クリエイティブのシーンという
都会には降りていない。
自分の居る場所は都会から
離れた遠く向こうの衛星のような心地。
空から都会を見下しているのではない。
いつしか都会への降り方や在り方、迎合が
分からなくなってしまったからでしかない。
逃げ道も無くし、
否定することも
分からなくなってしまった。
行き止まりや閉塞感は無い。
自らを誇らしげに凛々しく思うこともない。
起きてしまったこと、
起きてしまったことへの
不幸を感じることもない。
学生振りの中国にも
明確な意識を持って足を運んだ。
発展が富続ける深圳。
ハイテクノロジーが当たり前のように
日常に取り込まれたシステマティックで
ダイナミックな街並み。
多面的な魅力をコレでもかと散りばめる。
さり気なく現代美術が
日常に程よく組み込まれている。
当たり前のように律し、
時に大きな渦となり、
感性郡が歓声をコダマ饒舌連なり上げる。
日本列島から感じることへの
大きな相違がある街並みに
これでもかと出てくる見知らぬテクノロジーや
文化のチェーンダイナミクスが
佇む前提での平和は圧巻でしかない。
その上をドローンが幾多に飛ぶ。
そして、想定外だった香港での蛍の出現。
電子光と自然光が国境線で対比する
恍惚なメタファーは感慨深かった。
中国料理の味わいも冥利で
高貴な奥行きを全てが切り札かのように
繰り出される品々。
久しぶりにここまで単調ではなく
淡い異奏でハーモニーが連なるとは想定外。
そして、喫食趣向への順応性が高い。
これでは味への探求も
我儘になってしまうではないか、、
さて、心からの中華圏への賛辞は
主義思想趣向を除外した
素直な感想である。
しかし、全てはコイントス。
裏と表。
陰陽が佇む。
日本に帰れば、
充足された日々に自分の書斎がある。
これがどれだけ恵まれたことということか。
それを異国での時間軸を刻むと、
浸るように感じるのだ。
今の日本に適応することも、
海外に適応することなく、
全てにおける中道的なニュートラリズムを
形容し続けることの重要性(
つまりは理解されない孤独)を
規則正しく守ることだ。
時折駆け巡る排除的な社会への
大衆の不満が集中することによる自己を見失い、
本来あるべきものが
無くなり続けている今が末恐ろしい。
駆逐されるべき論点が
車窓のような走馬灯のように駆け巡る。
各所で加熱する大衆論点の渦のロードフィルムを
複数のモニタリングを経て、
モニターの電源を消した。
電気信号と電磁波を除いた音は
加齢とともに失われる聴域から
なぞらえば沈静化している。
また誰もいない場所で
密かなmicrocosmから
harmonyと symphonyという
現象の庭を積み重ねなければいけない。
孤独な惑星という邪心も
猜疑心もないなか、
ただ密かに積み上げるしかないのだ。
現実的な理想のなかで
蓮夢をカレイドスコーピクスへと刻む。
その音は自らと周囲への鎮爽音
となるに違いない。