2026.1.5 Vol.70
「The Emerald Beginning of Qualia Slope Part.10」




クオリア坂にも新年は等しく訪れる。
初詣の行列を成す様相こそ新年。
今日くらいは良いだろうと
深夜へ身を放つ自分に夢遊感を重ねる。
普段以上に街や通りに濁りなき間もない
新年のタイムラインが最も綺麗。


窓際では日中から猫番長による
可愛げを含んだ決闘が聞こえる。
ソレを楽しむ弊家のMono、Qloは
もう過去の野生を忘れ、
まるで特等席で格闘技を観戦しているかのようだ。
長閑な様を俯瞰し見ていると、
彼らにも雅な暇があるのかもしれない。



新年早々に降りた
小なる牡丹雪に仄かなアクセントを感じ、
福岡の侘寂の効いた薬味のような雪が好きである。
東京ではこうもいかない。
交通機関もフリーズし、雪を愉しむ余白がない。
そして、「白」という余韻や空白の余地もない。
目に見えぬ遠赤外線が
有象無象飛び交う東京の邪たる空気にも
嫌悪枚挙に暇がない。




年末の残香光射の多層の
パラダイムリフレーミングの
アントニムな末縁を辿る先。
気付けば自我と気力を失う末法ながらも
凛々しく朧月を眺める我を見つける。


末法を辿れば、君の影は末期を覚悟せねばならぬ。




夢遊から現実へと戻っていく意識。
分離と乖離の辻褄と帳尻は合致。

自宅で衣類に縛られない
shēn tǐは異常なまでの快適さであり、
年末年始の極まる寒さにひりつくことがない。
決められた位置に置いた
Bodumのダブルウォールグラスに
決められた位置と温度を
規律させた水を注ぎ、
体へ取り込んでいく。

あくまでも1杯のみ。
決められた分量を体内へ含んでいく。
変わらないルーティン。

日頃から毎凪を心地良く眺めるような
生活を送る自分には、
年末年始という空気感に於ける
テンプレーティブな全体主義的な急激な緩急や
静動脈の収縮伸張への迎合には余所余所しい。
だが、着信も含めたアラートが鳴らない
電子的な静寂は見事。

とはいえ、普段から携帯は就寝モード。
電話にはその場で出ない生活。
約束した時間もしくは
事前に電話をすると伝えてコールするか、
急な連絡と察したときに折り返す。
基本的にはメールでサマリーを聞いて掛け直す。
電話帳に登録した連絡先はすぐ折り返す。






気付けば歳を重ねることによる
「表現」の多種多様化が進む。
手癖としない自己を裏切る
何かという灯を明示しないままに進んでいく。

冥利な推察を企てれば、
今そして日に日に
drowsinessの表現に触れる人々が増えている。
しかし、普段の生活には何の影響は微分も生じない。
とはいえ、人と話そうと思うことが
思いつかないので話したくもないし、
色眼鏡で見られる水商売な日々に
身を置くことへの快楽や、
所謂「業界」「知識人」「文化人」だったり、
読みもしない買ったこともない
ブランドに取り上げれられることで
自分が認められたと錯誤するなど、

ただの排他的白痴
(当人人格の否定ではない)の極みでしかない。

そして白痴が消費され、
根拠が会話上で定義されぬまま
表層的な馴れ合う様など、
もう目も当てられぬと考える直後に立ち去る。











誇示は果てることなく、
拒否するならば只我が消え去るのみ。











理解されようとも、
彼らをアブストラクトに
肯定理解した上で冷ややかな目で見る。
只、好きだと思う華が違うだけの話。
悲しくも儚くもない。
無機質な混凝土の独房で過ごす感覚は
14年変わりない。

独房から見える景色は大きく推移した。
驕り高ぶり偉そうに錯誤錯乱した
身の程知らずの
限りない白痴の歓談や
立ち話の光景は全て消え去った。


その状況に歓喜や高揚を感じることも何もない。
敵を作ることによる自分の正義を
律することにも全くの関心もない。
僕は只、規律正しく程良き間合いで
没入の抑揚を繰り返すだけ。
時折行う水泳における一連の所作に近い。


水中ではノイズ無く、
時折水流に沿い逆らい泳いでいく。
浮遊した体にストレスは無く、
マインドフルネスへと追入していく。
水面から顔を出したときに、
居たはずの人々が居ないのと似ている。
自らのアンビエントを保ち続けると、
自らにとっての不協和音は立ち消え去る。
ランニングハイとも 小なり
似ているのかもしれない。








思考や趣向の中心軸から
知の探索を落とし続けると、
クオリア坂を通る人々や
車、自転車、動物の推移変異も連れて動いている。

思考の淀みを止める為にも、
44℃のバスソルト半身浴と
冬らしく限りない冷却水による交代浴を数度経て、
自律神経の純化を企てるのだ。


何一つ変わらない日常。
どんな分岐による起伏にも
善悪のクオリアは常に寄り添う。
同じような大枠の所作にも
普段見えないクオリアの原石が瞬くかもしれない。
自分が少しでも燻んでしまわぬよう、
磨くことを怠ってはならない。

そうして新年の推移による
タイムラインと共に不意に訪れるクオリア。
脳科学で律された文化的サイエンスによる
不可解な高揚沈静。

今年のクオリアは総じて
どんな色香光射なのだろう。
このようなことを考え続ける
自らが最も白痴なのは
限りない事実なのだが、
何時までも私的周囲の何かや
くだらなさ(童心)へ
イマーシヴの付点を贈きたい。