「Le: Gypsophila Vol.1」
哀愁は一定数、
その時々で織り込まれ認める。
ふと気付いたときの感傷さに寄り添うのは食であり、
程良き間合いの「Vita ricca」を保つには、
外食という外的要因で満たされない感性は妙理。
埋まらないモノ(破片)を別のモノで代替するのは
輪郭が見事に合うこと無く難儀である。
衣食住という言葉がある。
メディアというモノは
この3要素をぶつ切りにする。
以前は輪郭のようになっていたStile di vitaは、
他人から見た表層美のみの
歩くフォトスポットが多数を占め、
人々に知らせぬ必要のない
間合いの美学は軽視される。
然し、略全ての美学の総集編が
そのフォトスポットに表れ、
オールタイムベストを持ち歩いている。
勿論ぶつ切りにされた
メディアの恩恵を筆者も常時受けている。
「刺し身が海を歩いているのだと思った」
多くの子供がそう連想するそうだ。
その子供たちはこう思うのかもしれない。
「こんなに香水や装飾品、ブランドを纏う人は
どんな生活をしているのだろう。
きっとお洒落に違いない」
歳を経てその内側に居ると分かるのだが、
然程派手なモノは無く、
比較的アンダンテなモノクローム程度の抑揚で
全てをフォトスポットにしてしまう
自己顕示主体の様式美であり、
其処に何故それがあるのかを追わない人々が大半である。
装った擬似的なエスタブリッシュさや
スノッブさは時代に即していない。
常に身分相応なOvbious Realが
途轍も無く素敵で仕方ないのだ。
其れが時代を模して
共感性が高いヒップホップな
世界への共感に繋がるのだ。
再現性無く止め処無いCon dolore。
Le:Dolenteを塞き止めるために、
其処にLe: Gypsophilaを認める。
「久原醤油あごだし仕込み 紅鮭」
自宅兼オフィスの美化活動は欠かせない。
その一連のフローに於いて、
料理という要素は切り離せない。
僕にとっては、
ライフスタイルショップや
アパレルを眺める以上に、
日々値段と在庫が変化し、
株相場をビジュアライズさせたかのような
スーパーマーケットという場所が
留まるところを知らない
エンターテイメントでしか無い。
日々の充足は此処と
システマティクな生活で住んでおり、
ある時を境に過剰な
物欲が無くなってしまったことも大きい。
ふとした契機により、魚に目が泳がされていく。
福岡に来て、鰹と鯛の身近さ
親近感には歓喜を感じ、
マスタードを絡めた
カルパッチョはビギナー程度に熟れてきたが、
意外と焼魚という方向性を
留守にしていた。
スーパーのPOPに目線が流れていくと、
普段あごだしでお世話になる
久原のモノで仕込んだ紅鮭に補足される。
重ねて九州では地場産のボリュームある
肉類の多大な日々への貢献があるが、
ソレを踏まえれば、
躊躇してしまう金額。
然し、日々外食(他所行きの食)と
外出をしない弊夫妻からすれば、
自宅での食への充足が
翌日の活力への架け橋であることを
感覚で理解している。
最初、別の鮭を手にとっていたのだが、
一回りは大きい紅鮭は魅力でしかない。
そしてグリルの初々しいデビュー戦も
設けることが出来る…
3分中火でグリル内を熱し、
良き音を紡いで網に載る。
6分程で皮も想定通りな仕上がりを装う。
この塩気に白米をマリアージュさせぬのは重罪。
白米も炊きたてを用意。適度な硬さに仕上げる。
あっという間に僕の手元の紅鮭は
消え去っていたのだが、
しっかりと体が翌日までに覚えている程の
美味さと想像以上の充足。
九州は外食の街というが、
僕にとっては最も自炊が艶やかな街。
こんな街で逆に過剰な配慮をしてまで、
外食が勿体無いという
アントニムなダブルバインドも内包されている。
「ムソー オーガニックアイスコーヒー」
コンビニで久しく買うことが無かったのが珈琲だ。
セブンイレブンにおける
富士電機の知技の結集の素晴らしさは
頭で理解しつつも、
そもそも珈琲を喫する私文化が無いのは
今でも変わりない。
特にミルクを好まない自分にとって、
ラテというモノも縁石の彼方の話題であり、
珈琲店に行くのは、
「まさに前述した背伸び」に近いモノだった。
然し、契機だったのは
学生時代にふと訪れたomotesando koffeeで喫した
ゲイシャが飲後の景色や世界観を
大きく変えてしまったことだ。
何より、初めての海外旅行が
赤道直下のニカラグアだったことで、
あの開放的な空の下で飲む
スパニッシュな空気と微睡む珈琲だった。
お土産で買った珈琲も
酷く喜ばれたことの感覚の輪郭、
未だ確かに有る。
ある時、珈琲好きの妻に向けて、
自宅に珈琲を置くことを試みる。
最初は妻用に用意していた
このオーガニックコーヒーなのだが、
気付けば僕の書斎の無垢なロングテーブルに、
黒い液体のコントラストが
合うようになってきたのは最近。
勿論美味しいことは言わずもがなである。
口当たりも軽やかに、
ハッキリさせたい朝の曖昧さを鮮やかにするし、
マリアージュさせる相棒の炭酸水も天然水を選び、
服の素材感コーディネートのように
コーディネートする。
勿論炭酸水も数々のリサーチを
経て選んでいるが、
実はこれはコンビニの
プラベートブランドのモノである。
外出時に買う飲料は
必ずコレがいいというくらいであり、
それが買えなくても、他の炭酸水は口にしない。
福岡の水道水の美味しさは
濾過機の経過観察で体感しているが、
それでも自然由来な水を好むのは必然だろう。
水道水に於いては山形、熊本の
美味しさを知ってしまっては、
やはり地元東京の水は工夫して
摂るしかないのだ。
自宅で水出しのアイスコーヒーが
何時でも飲めると考えれば、
もう一人でカフェスタンドで
珈琲を頼むことも行くことも無くなり、
好きなボトルに入れて持ち歩けば、
無理に買う必要もない。
珈琲というモノは原価として
高くても数十円であり、
それに何百円も掛けて喫するなら、
ハッキリと美味しいモノしか飲まなくなる。
ムソーの珈琲も決して安くはないのだが、
カフェで買う珈琲一杯の値段で
1リットル飲めるのであれば、
これは寧ろ安すぎるのだ。
逆に他の飲料も加味し、
コンビニという存在が
買う消費者金融のように
高すぎてしまうのだ。
どうせカップも捨ててしまう。
其処に在った意味も考えることなく….
どんなモノでも勿論良いのだが、
マイボトルは密かな嗜みだと思う。
日本では馴染みが無いものだし、
実は世界に誇るボトル立国である。
最近は炭酸対応のボトルまで出ている
僕はあまり周りが使っていないという意味も含めて、
シャスタリボトルを愛用している。
然りげ無く、持ち歩けるアート。
そうなら其処に準じてアンチテーゼを噛ませるくらいが無機質で健気なパンクで良いのかもしれない。