2026.3.4 Vol.80
「The Emerald Beginning of Qualia Slope Part.19」

動的な景色を眺めるのを好む性分に
然程大差はない日常。

本来は音の苑を描く人は
文苑に兎角居場所を求めがち。

人々の日の目に当たらない適度な射陽が注ぐ
先に比成る茎根の毛細図が広がる。

毛細の根源の月夜の
肯定的暗躍(秘技)のみ知る矢先。






気付けば手相が大きく変化している。
普段から手相を眺める癖がある
自分にも驚く始末。
手相が照らす先へ
言葉を重ねるのが憚られる。

掌に現れる自然由来のDot。
黒孤島は何時現れたのだろうか。

ポケモンのマボロシ島のようなニュアンス?
乱数の基本母数は
非エミュレートで1/65536となる。





YouTubeの軌道が憚られている。
当媒体の広告程度の電子雑踏に
触れるのは若干の健康性を律する。


3/4 4:22には復旧済み。安堵。






今日もパーティーのInvitationを消す。
個別メッセージも同様。

然し日経のアラートだけは欠かせない。
唯一の電的日時計。

9:00~11:00, 14:00~16:00が
酷く日常的な恍惚の贅沢で仕方が無い。




「家の息子も君のようになれば良かった。
不出来なモノでね…」


妙齢の言葉には惑わされない。
自分なんて、酷く褒められたモノではない。

未だに音楽のコトも良く判っていない。
また、所謂同業らしき人との対話に
高揚感を覚えることもない。

何時迄も「余所余所しさ」が抜けない
素人の極みなのだ。




「文章を書いて生活をしているのですね?」

結論短略的に言えばそう。
音屋なんて、まだ15年程度の
梲の上がらぬ極零細なのだが、
文作なんて、もう30年の祖業となりつつある。

それは僕が特別なのではない。
多くの貴方も幼少期から
日記を義務付けられ、絵日記に発展する。
皆書いていた由來のものを
ただ続けているだけなのだ。

付随してアナキストでもその対極にも居ない
スナフキン氏が近い。
それに気付いたのは極近日だが、
現代病な人々への処方箋なナラティブな
彼の思想なのかもしれない。







一時期、頻出していた
某都道府県の総合美術館を回想。

美術は対峙鑑賞するものではなく、
ただ無言で程よく寄り添う
都合の良い孤独を分かち合うモノだった。






止めどない五月雨で綺麗な夢を
見たときの記憶群の残像は無い。


酷く怯えた我と
革底の革靴が水溜を極度に避け続ける。

人々が思う以上に道に足場は無いのだ。
靴を護るために交通機関に肖るのも不思議な話。
とはいえ、帰宅後靴底に保湿クリームを施す様は、
幼子が転び怪我をしたときに
絆創膏を貼る行為に近き心情かもしれない。


福岡での生活は、妻が居なければ徒歩移動。
人々が好んで微睡む
車窓な図面を流し見するのが好ましい。

気付かない何かに気付くことへの
愉しさも隠せない。



普段の電話の反り具合が
芳しくなかったことも付随回想。
手相の転体と同じく、
人々の心情も秘密裏な揺らぎを想わせる。

そして今払暁も変わらず程良き音文苑と
純たるクオリア坂を保てている
充足を踏み締めて。