2026.4.16 Vol.87
「 The Emerald Beginning of Qualia Slope Part.23」



理知的な閉口は何時でも
見事であるのだが、
時に本音で居ることにも
閉鎖的になる世の平常線。

薄暗き朝を2,3時間、
座標と時刻を誤解する様も見事。
妙な書斎横の人工光による
妙な微睡みによる澱みは淤泥のよう。




意図しない感覚で道を降りていく。
湿度高鳴る降りた春の暦は、
観覧客が増えた動物園の家族連れが放つ
幸のサーモグラフィも並列して
輪郭仄かに彩度が濃くなる。
麒麟を見れた日の妙な微弱たる多幸感は
言葉に代えがたい。












春隣に於ける最適な幸とは何なのだろう。

人生に於ける幸についても付随して考える。
同時に中節な別れ、永訣も付帯する。
「こうなる筈では無かった」と考えさせられ、
裏切られる人生に於ける
取捨選択による離反もある。




引き続き、歩き慣れた道を進んでいく。
坂道を越えれば、
相応の現実がクリアになる。

ふと気付き横目を向ければ、
身近なほどに盲目になる
何かの偉大さや尊さが見えなくなる。
当人が「自らが偉大だ」と
小賢しいことさえしなければいいのだが、
それが全てそうなるとは限らない皮肉もある。




その意識が落ちた
リバーサイドの花々は散っている。
百合に纏う水滴の粒子は大きく、
拡大鏡で眺めたかのような佇まい。
気付けば湿気を纏う空気は
少し眠気が冷め始めた夢のような心地。




此処でほしい蜃気楼はやって来ない。





そして、残像の列も成すことはない。
感じるモノは自らが纏う物理化した霧のみ。

Nonlocalityでアントニムな事象も
付帯して纏い続ける。
今日もクオリアに
耽っていくのみなのかもしれない。