2026.4.24 Vol.89
「The Emerald Beginning of Qualia Slope Part.25」




ふと「イノバン」を想起させる回路を辿るも、
脈絡がない。

僕は「イノバン」を知らない。
触れたことがない。
然し、検索力学を傳えば、
実在してしまうこと暫し。
知らない言語を何処で
仕入れているのだろうか。
目も口も耳も点字も
介在させない言葉とは何か。

その定義が当てはまった際の
微々たるナチュラルハイ
(自立式なアンフェタミンの精製)は
少し香ばしい。
然程中毒性はない。とは言え、
別軸の推察ながら天然由來な無味無臭に
甘味を感じる自分は
やはりニュートラルではない。


経口で代理するアンフェタミンの充足感は
比較的心地良い。
体温の高揚で感じる微々たる発汗膜を纏えば、
より回路のON/OFFを感じられる。
補給する人工的クオリアとも言える。




解像度を上げた言語禄群に
触れていけば気付く。
そして、ふと十数年来の友人は
サインを察する。
彼らはもう言葉を交わさずに、
幾つかのキーワードで準じて察する。




ソロモン・アッシュは定義を律した。
パル・シンパティアの揺り戻しによる
愉しさへの高揚。
年々失っている。




諸先輩方には多大にご周知頂いている。


「理論と前提は深化と共に
サステナビリティなゲシュタルト分解の
輪廻の集塊を積み続ける」


Homo Mundi Maiskyほど律することは難しい。
然し、Maiskyが差した、
Mundiが答えを持っているに違いない。
往く先は並列した推察ながら、
其処なのだろう。






悲しさほど甘美で奥行きを含んだ五月雨はない。
5月病は悲しみ患いなのかもしれない。

悲歌慷慨が鳴り止まぬ産廃所を好む
大多数は酷く汚れている。
その悲歌へアッシュ定義が
擬似的ユートピアを好んでいる。
大多数は旧態然とした
義務教育の定義を酒肴としている。

プラットフォームの歯列矯正的言語が
解とされている解釈は、
あくまでも、アッシュ定義の愚を
模しているに過ぎない。

嘘ではない。結果的な集団制のゲシュタルトに
準じているだけである。




僕はもう久しく集団という場所へ
身を晒していない。
繁華街を歩く感覚すら、
もう忘れていっている。
常にトラブルを孕んだリスクが
富み続けていて悲壮感が強まる。
付帯して、自分がソレを起こさないように。
ノイローゼ含め慎重に。




「売れる」「認められた」「人気」「友達が多い」
付帯するアントニム然り。

そんなフォーツールを持っていることに
多幸感を纏われるのか。
アッシュ定義とクオリアに
プライオリティを持たせるのであれば、
構わずその現場から離席させて頂く。
数年後に等しい価値でない
可能性が無い何かへの
依存癖ほど驚嘆することはない。

そういう定義や事象よりも、
普段眺めている景色で
好きな飲料を飲んでいる
然りげ無い再現性高い日常が
比較的シームレスであることの方が
最も幸せであると思っている自分が居る。





「義理」を保身し続けることによる
プライドで胃を痛むのなら、
ニュートラルな多幸感の間合いを保ち続けることが、
天然由來でサブリミナルなプラセボなのかもしれない。

-

人々が祝いとする場所が、
只「ブギー・バック」している事象への
末期の尾を見ることにはもう慣れている。

我に返れば、またメールが溜まる。これは悪い癖。
然し、義務教育の校則遵守を捨てている。
そのまま、席に座る疑似的な儀礼すら
遠慮なく捗った果てに、
自分が居た席が綺麗に
無くなっている事象が起きたら圧勝だと思い、
ソレが叶うことをそこはかとない愉しみとする。