「llluminant Alfresiv」 (ex.drowsiness)
Self-Interview




この度、来年のdrowsinessの結成15周年を祝して、
幾つかのコンテンツを企むとした。
その第一弾として、
drowsinessの1st album「drowsiness」を
デジタルリリースする運びとなった。
(尚アルバムタイトルはアグリゲーターのガイドラインにより
「llluminant Alfresiv」へリモデルしている。)
無名ユニットも気づけば
14年も活動する運びとなるのが、
酷く恐ろしい等しき時の流れである。



drowsinessの結成は2011年となっているが、
実際には2010年の後半から芽吹いていた。
その辺りのことを意図的に書こうと思う。

気づけば一切デビューをしないまま
来年で芸歴が15年になる。
マイナーのなかのマイナーの
drowsinessは低空飛行。
今も昔も変わらない。
今まで一度も事務所もレーベルに所属しない
謎の無名無風アーティスト。

変わったことといえば、体感で少しだけ
drowsinessを知る方が増えたことだ。
そこに深く感謝致します。
こんな生意気な文章を
書けるような横柄さをお許し頂きたい。

冒頭に、お世話になる方々からの
本作へのコメントをご覧頂きたい。










今回、15周年記念のプロジェクトの一つとして
drowsinessの1st album『drowsiness』の
デジタルリリースに際しまして
このアルバムの制作に関わらせてもらっていたご縁で、
コメントを載せてもらう機会を頂戴しました。

私のdrowsinessでの活動は
数年間と長くはありませんでしたが、

drowsinessというユニットの芽吹きとなった
このアルバムは特に思い入れの強い
作品の一つとなっています。

各楽曲に込められたタイトルの意味や
不協和音の一つ一つが和になっていき
空間を生み出す過程を皆様の生活の中の
『音』の一つとして体感していただけたら幸いです。

Keito Suzuka(drowsiness ギタリスト)



正方形のように静かで確かな形を持ちながら、
螺旋状に音が広がっていく。
のびやかな感性で描かれ、
現在のdrowsiness作品の
テクノ感とサイケデリックさの出発点を
知ることができる。
シンプルな形式の中に、
落ち着きと試みが共存する作品。

美羽




意識の中で時を刻む荒いモノクロのサウンドと、
無数の色を散りばめたカラフルな響きが重なり、
刹那に生きる光を灯すアルバム。

14年ぶりにdrowsiness本人が手がけた
リマスタリングは、まるで眠りから覚めたように
全曲を輝かせる。
そこに広がるのは、
儚くも忘れられない景色。
新たな音の旅路を予感させるアルバムだ。

T-AK(Takashi Okazaki)



「ある日の東京の上北沢のライブハウス。
そこでdrowsinessを初めて聴いた。
太陽は僕の敵と言わんばかりの陰鬱な表情。
しかしながら温良恭倹な言葉遣いのMCが印象的で、
最初はどんなアコギのフォークソングが
奏でられるんだろうと想像した。
その割にはやたらエフェクター類が多い、
とそんなことをボケっと考えていたら、
始まりのストロークから
Oval(ベルリンのMarkus Poppのプロジェクト)の
逆回転的発想の楽曲が鳴り響いた。

僕がいたゼロ年代ベルリンの空気を
一瞬蘇らせたかと思うと、
その数秒後、彼の音と共に鋭利な現同時代性の「今」が、
額のど真ん中を突き刺し
後頭部まで貫いていったのだ。


そんな精神的大怪我を負った
初対面のステージからかれこれ何年?
そんなdrowsinessが15年前のトラックを
再構築したファーストアルバムを
リリースするのだと思うと期待しない訳にはいかない。

オリジナルトラックから促された個人的な印象は、
音に対して思考停止しつつ
更新を怠っていた僕の耳には斬新なものだった。

最初にdrowsinessを聴いた時の音は、
この世の偏見に満ち溢れたビートが
従来よりもグリッチ感覚に寄っていて、
硬質でリズム主体の構造よりも、
より肉体的で思考的だったのだ。
そう、偶発的なノイズというより
インテリジェンス的リズムと
レヴィテーションを自身のこれまでの人生に重ね、
記憶に音の色付けをするような
そういう構造的コードの配置が存分に感じられたのだ。

drowsinessの場合、そこが音のフェティシズムを
擽り癖にさせるようだ。
冒頭、僕の身近な知り合いということもあり、
サウンドアーティストのMarkus Poppを
引き合いに出したが、
一聴さすれば美術的抽象性を
多く含んでいる彼のスタイルがありながら、
drowsinessの音に没入すればする程、
drowsinessこと葛西直樹の生々しい生き様が
具体となって響いていることに気が付く。

今回のリマスタリングによって発表される
ファーストアルバムで、その余韻が増幅される。

あの日の衝撃がそのまま今の葛西直樹の音響技術で
磨かれ、より立体的で透明感のある
音像として甦るのだろう。
そして過去と現在が交錯する「新しい出発点」としての
アルバムになるはずだ。

あの時、額から後頭部へと
駆け抜けていった稲妻のような体験を、
今度はどれだけの人が受け止めるのか期待したい。」


Onpa代表 羽生和仁




カサイくん、この度は結成15周年、
そして、デビューアルバム、
リイシューおめでとうございます。


作品やライブ問わず
多彩なコラボレーションを展開しているが、

drowsinessというと現在マルチに多方面で活躍する
カサイくんの一人音楽プロジェクトという印象が、
その眼鏡男子な風貌と共に、
圧倒的に定着してるだけに、
結成当初は2人組ギターデュオであったというのには、あとから知った身として、
改めて新鮮な驚きがある。


そして、このデビュー作に充満している空気感も、
当時は2人組であったせいか、
ギターを主体としたインストゥルメントな
音楽性は既に確立されているものの、
アートワークも含め、良い意味で、
どこかロックバンド然としたオーラを放っているのが、またクールだ。

きっと、彼ら自身とても若かったことも
少なからず影響しているであろう、、、

後の、より色彩豊か、かつ時に
ダンサブルでさえあるサウンドスケープに比べると、
極めて退廃的で若者特有の煮え切らない
ヒリヒリとした心象風景が見え隠れする。
その極めてモノクロームな音像には、
どこか80年代のUK暗黒ニューウェーブや、
90年代の地下オルタナティブ・ロック勢とも
リンクする、自分からすると
非常に魅力的なインディ・ロック感覚溢れた
イメージを帯びている。

(自分なんかは後期JOY DIVISIONや最初期もしくは
アフターグランジ期のSONIC YOUTH、また
THRILL JOCKEYあたりのシカゴ音響ロックシーンまで
連想してしまった)

中でも特筆すべきは、ラストに収められた
"Opacity“という曲だろう。
MY BLOODY VALENTINEも真っ青おそらく彼ら史上、
最もギターロック的な旋律を持った、
ダイナミックで心地良く、格好良く耳障りな、
とにかく素晴らしい曲だ。
インストゥルメントでありながら
人懐っこいというかキャッチーというか、
非常に歌心をも感じさせる、
確実に世の隠れた名曲の一つと言えるだろう。。。



この曲を聴いていて、
ふと、自分が最も日本で敬愛する、
師と仰ぐ、とある音楽家の言葉を思い出した。
それは、

「その機材やテクスチャーを
熟知してしまってからでは、
決して出せない音や感覚というものが確かに存在し、
その手探りかつ、洗練されないからこその、
タイムレスな美しさや格好良さも、また、ある」
というものだ。


おそらく、きっと、
それは世のアーティストの多くの処女作が
素晴らしいとされる所以と同質でもあり、
この記念すべきdrowsinessのデビュー作も漏れなく、
それらに含まれると言えるだろう。

また別の視点から語るのであれば、
これはカサイくんと、相棒である、
もう一人のメンバー、
ケイトくんの創作的青春期の賜物であり、
今なお力強く聴く者の心に刺さる
冒険の記録とも言えるだろう。

個人的に、音楽は、
どんなフォーマットやメディアよりも生々しく、

ありとあらゆる、
その時その時の瞬間を
刻めるものであるという
確固たる思いと確信が、自分の中にはある。

なので、このリイシュー再リリースを機に、
ふたたび彼らの、偉大なる足跡が、
自分も含め、
改めて一人でも多くのリスナーに
届くことを想像しながら、
今回、僭越ながらコメントを
書かせていただいた次第であるが、

最後に、とても重要なのは、
この冒険は、今なお現在進行形で続いている、、、
ということである。
次は、一体どんな世界を見せてくれるのだろうか、

今後も、また楽しみであり、頼もしく、
また、どこか誇らしい気持ちにさせてくれる。
いま目の前で鳴る、
このデビューアルバムに触れながら、
改めて当時の彼らにもリスペクトを捧げたいと思う。THANKS, SOUND OF YOUTH...

サトウヒロシ(THE MONORALS)












まず2010年は東京造形大学に入学した年であった。
高校生活から始まっていた音楽狂いは止められぬも
美術大学に行くなかで、

デザイン表現以外を
認めていなかった節がある。

音楽をやるということは考えず、

靴に纏わる何かをしたいと考えていた。
高校の卒業式と東京造形大学の入学式には

アフロリーゼントで行ったのだが、
そんな頭で行くのが恥ずかしくなり、
すぐに頭を丸めた。

そして、すぐに草野球部に入部し、
ランチタイムはグラウンドでランニングしていた。
並行して恩師の紹介でインドのムンバイの
環境汚染対策プロジェクトに参加し、
早速23区内へ通うことが出てきていた。

東京造形大学に入って感化された
音楽は多々あり、
CS-Labの存在が大きく影響し、
ノイズミュージックや現代音楽、
メディアアートに触れていっていた。

元々ハードコアパンクが好きだったので
デラシネやMELT-BANANAから
ノイズミュージックをサマライズしていた。
並行してありとあらゆる音楽に触手が伸び、
完成の土台が育まれた最中だ。
当時はストリーミングサービスが無いので、
ありとあらゆる手を用いて音楽を探していた。
当時の東京造形大学が今のインプロや
ノイズシーンの接点を作ったのである。

それと並行して、
クロネコヤマトの西東京ベースへ
荷捌きのアルバイトへ通っていた。
当時の全財産といっても良い
パソコンを一時的に盗まれるも、
また棚に戻っていた軌跡を忘れはしない。
僕はいつも指示先の荷捌き先を間違えてしまい
ライン長に「お前が悪い」と責められていた。
給料の貰い方を忘れていたが 、
確か手渡しだったと思う。
そこで30万円くらいを稼いだと思う。

既にパソコンはAppleの学生ローンで
購入していたので、
次はギターや機材だった。
とはいえ、そのとき基礎の機材はあり、
僕の代名詞BOSS ME-6は
父に八王子のハードオフで
適当に買ってもらったものだ。
別に意図して使っている理由ではなく、
たまたまである。
そんなたまたまの機材とこの人生の半分も
添い遂げると思わなかった。
あんな音、
こんな音は殆どこのエフェクターで出している。


同じくもう一つの僕の代名詞のAria Pro TS-400も、
たまたまデジマートで
29800円で売っていたので購入。
試奏もしていない。見た目で購入。
全てノリで選んでいる。

並行してインターフェイスや
ミキサーを購入したが、
特にミキサーは使い方が分からず
ダメにして終わってしまった。
この頃はどうやってアンプが鳴るのかが分からず、
ミキサーなんて何処に差したら
音がなるのか分からなかった。
(ちなみに今も其処まで大差ないが、
丁寧な方々が教えて下さるお陰)



色々と機材が整った。
まずはバンドをやることに。
実はこのとき、
後に赤坂BLITZでワンマンライブを
やるまでに成長したバンドのお手伝いを、
大学からあるバンドのお手伝いをしていて、
バンドを組むよりも、
所謂業界へ入っていた方が早かった。

そのなかで、
まずファストコアバンドを組もうとし、
メンバーに声掛けをしたが、
そもそも志していた楽曲への理解を得られず、
1回目のリハで空中分解した。

その合間で作っていたのが、
「drowsiness set」と呼ばれる
サブセットでやろうとしていた楽曲たちである。

そのときは既にSP-555というサンプラーや
同級生の後藤くんとの
卓球ラケットの物々交換で手に入れた
ローランドのシンセサイザー、
カシオトーンを使いながら、
「打ち込みってこんな感じかな」
という感じでデモ制作していた。
今よりも貪欲に音楽を制作していた気がする。

そこでケイトくんに
TellingとFrom a Certain monrning to nightを

聴いてもらい一番最初にファンになってくれたので、
あの公園でメンバーになってほしいとお願いした。
後にも先にもあの公園である。

(よく100円ローソンでスナック菓子と
炭酸ジュースを買って語り合った。
ちなみにその頃語っていたことは 、
現時点で既に叶っている。)

その流れでdrowsinessのライブもスタート。
そこで始まったのが、1st album「drowsiness」
(現「llluminant Alfresiv」)である。





drowsiness 予備前述辞典

1:drowsiness:現在は一人ユニット。
パーマネントメンバーとして
最重要期に活動していた
Keito Suzuka(ケイトくん)がいる。

drowsinessの語源は
「聴いていて眠かった」
「Corneliusのように
1字で読める英語名が良かった」がある。
大御所アーティストに
「判りにくいから本名で活動しなさい」と言われるも
丁寧に無視。今に至る。

2:drowsinessのギター:
ネット通販で適当に見て購入。
実家から比較的近くの楽器店で通販で購入。
ケイトくんも準じて同じブランドAria Proを購入。

3:drowsiness衣装解説:
当時のdrowsinessはジャケットを
神戸のデザイナーズブランド ISATO DESIGN WORKS、
シャツは出たての+J、
TシャツはAmerican Apparel、
ジーンズはUNIQLO、
シューズはほぼ必ずジャーマントレーナーの現物。
結構ミリタリーとモードテイストを好んでいた。

Keitoくんには不定期に僕の服を渡していて、
最近は勝手に送りつけている。

4:予備知識:Keitoくんは大のメタルとメダロット、
ウイスキー好き(お酒強い)。
初の海外旅行はエジプト
(尚、drowsinessの初海外旅行はニカラグア。
ポケモンに視力を奪われており、伊達眼鏡ではない。
お酒はそこそこ。学生時代は時折記憶を無くし 、
卒業式は泥酔して八王子駅のトイレで寝ていた。
急性アルコール中毒で搬送経験有)







「llluminant Alfresiv」について
世界標準の光源を齎すエルフ助言的
とでも言えば良いのではないだろうか。
造語である。
14年前に行っていたことも、今と然程は無い。
見守るべき人々が支えてくれた今という意味である。



①:From a certain morning to night.

前述の通り、drowsinessを始めるにあたって
始祖となった4曲衆のうちの1曲。

まず、実家の奥まった自室にて機材を数珠繫ぎにし、
前述のME-6で遊んでいた。
折角なら、何かに使えるならと思ったに違いない。
そこで不協和音の連譜が行われたので、
適当に録って成り立ったのがこの曲。

このアルバムそのものは、
本当に偶然適当に録って出来たもので、
正直、あまり意図が無い。
答えも解らず居場所も分からない。
だから、当時どの箱で
演奏すべきかも何も解らなかった。

「From a certain morning to night.」は
「ある朝から夜まで」の英訳だが
タイトルも速攻で連想されていたので、
出るべくして出たのであろう。

大枠は一番最初のデモを大きく踏襲しているが、
途中にポストロックなブレイクを入れている 。
ここは当時関わっていた
nhhmbaseの影響や源流への
解釈の表れと推察する。

途中のノイズ音については、
Guyatoneのベースフェイザーを弄ったら
ノイズが出たので、
その音をLINE 6のモジュレーションや
ディストーションで加工して生成している。
今作で一番荒々しい音に違いない。
初期は音が粗いのだ。

今も時折ライブで演奏することもあるが、
自作でもう「Re: From a certain morning to night.」と
第二弾が出たこともあるし、
今の演奏では「Re:Re: From a certain morning to night.」
である。
次はケイトくんにアレンジを企てて頂く
文通を試みるとしよう。




②:Desire of the End

日訳で「欲の果て」。

一気に作風が変わり、虚無さに苛まれている。
IDMのような雰囲気があるが、
この曲は僕がGarageBandで録ったデモを
そのままヨコハタトクヤくんが
ミックスしただけの曲。かつ1トラック1発録り。

今作のときは、
そもそもレコーディングの音源再現性が無く、
自宅で録ったデモをそのままレコーディングに
用いることも多々あった。

そのため、ライブと音源の差が非常に大きく 、
次のIndifferenceでの歩みへ切り替わる前までは、
とてもじゃないが、
まだ音源の方が良かったと推察。

この曲はME-6の
デジタルディレイの
ディレイ・タイムを適当に触っただけで
成り立っており、
コードは適当にギターの教則本に載っていた
あまり誰も使わなそうな音を
ワンコード主軸で成り立たせている。

drowsinessは比較的ワンコードが多い気がする。
比較的好きな楽曲だ。




③:Fall

日訳で「転落」

この頃は比較的感傷気味の
ポジティブさが躁転しており、
特に手応えは無く、
ただデモを生成していた。
機材を出しては片付けるという、
今のスタジオ環境とは程遠い
姿は今では笑い話である。


この楽曲は複数のデモをもとに生成されており、
基本的にチューニングをバラバラにし、
フィンガーピッキングを試みたり、
今では考えられない
複数のディストーションにて
不協和音を奏でている。

まだ6弦奏初期として
ワウやハイテク機材を使わないなど、
かなり限定性を設けていたが、
モチーフになったのは、
Arto Lindsay氏やAgata氏(MELT-BANANA)、
中原昌也氏、
幾つかのサウンド・コラージュ音源だった。

Fallもやや最近まで
インプロ形式で演奏していた過去がある。




④:One’s Past

日訳で「一つの過去」

最初のリフだけが悲しく存在していたが、
サウンドエンジニアのトクヤくんが
デモをコラージュして楽曲と成り立たさせてくれた。
後半のモジュレーションのようなサウンドは
誰が鳴らしているのか覚えていない。
でもいい音がしている。




⑤:A Left Hand:Telling

このギターのテケテケ音を「Telling」と称するのだが、
drowsinessを始めるにあたって
始祖となった4曲衆のうちの1曲。
実は未だにライブで演奏している。
どれだけ曲が書けないのだろう。

何も解らないのに、
ギターのピックアップを
ブリッジミュートするだけで
こんな音が出てしまったのだが、
それが思ったより心地良く、
今でいうトランスやアンビエンスを
感じたのかもしれない。

正直、自分でも「Telling」が
生まれたことに酷く驚いていた。

自分でも未だ嘗て
聴いたことの無い音は摩訶不思議で、
そもそも咀嚼の自流が解らず、
其れをそのままKeitoくんに委ねたのだ。
つまりKeitoくんが承認しなければ今が無いのだ。

この楽曲には僕がベースを弾いた。
実は高校時代は渋谷ラママで
演奏する釣り合い取れぬベーシストだった。
空間現代と対バンしていた
高校2年生時代が懐かしい。
当時はDISCO GIRLというバンドで
メジャーデビューを目指していた。





⑥:A Little Homesickness

Homesickになったことはないが、
人生初の海外旅行がニカラグアだったので、ややHomesickになっていたのかもしれない。

音はセッション形式で録音しており、
Keitoくんのサウンド・コラージュが
非常に活きていて、僕は非常に好きである。

Keitoさんのサウンドアプローチに
テクニカルなメタリックさを感じながらも、
彼なりのアブストラクトで
実験音楽的なアプローチを
ポップに昇華している今作は、
ある意味一番の見せ所だろう。

様々な音色の調律が取れている
不可思議さもこの楽曲の良さであり、
何気にスタイリッシュさの規律さも保っている。

僕は白昼夢を眺めていた先の
遮光と飛蚊感を愉しんでいる
楽曲だと思っている。
最後に入るディレイは
ヨコハタくんの案だった気がするが、
皆全くエクスペリメンタルでない
バックグラウンドの人がこういう要素へ
向いているのが不可思議で奥深い。




⑦:Silly Secrets

日訳は「浅はかな秘密たち」

クリックの音はこれもヨコハタくんの案。
つまりこの作品やヨコハタくんとの
共作感も強い作品であることは否めない。

この曲ではまさにノイズを
体現したく制作した楽曲だったが、
意外と作ってみると
物凄くノイズな音響にはならない。
そこでDAW上のエフェクトで
だいぶアレンジしてもらった。
地味に曲の尺が短いことも含め、
当時なら長尺に大しての
アンチテーゼがあったのかもしれない。

クリックの音のスプリングリバーブは、
デモレコーディング時のアンプのモデリング音から。
この頃はひたすらにベースアンプ。
何度かスタジオのアンプやキャビネットを
低音中心のギタリストとは思えぬ
爆音により壊したり不具合させていたりしていた。




⑧:With the Footprint

日訳で「足跡とともに」
僕らは「アシアト」と称する。、
4曲衆のうちの1曲。

このコードを適当に持ったときに、
これだけで表現してみたいと思ったくらいに
魅力的で憂鬱な音で良いと思った。

僕はただこのコードを
ずっと弾いているだけなのだが、
それが何故か淡々と心地良く、
何より無垢なオルタナティヴであり、
この偏った作品にストーリーを齎している。


この楽曲も大変良く演奏したり、
モチーフにして、
抽象的な表現やニュアンスに用いたりしている。
Keitoくんも僕もこの曲がとても好き。落ち着く。
もう僕らにはオールディーズな
イージーリスニングなのだ。

Keitoくんのギターリフが非常に心地良い。
こんなのを弾いて欲しいと思った以上を
ちゃんと咀嚼してアウトプット出来る彼は、
謙遜し過ぎな程に大陸横断的な名ギタリスト。
もっと評価されて然るべし。
身内だから褒めているのではない。事実だ。

中学校の頃から明らかに努力と
その先を見たギタリストとして、
圧倒的なコミットメントがあるのに、
性格のナチュラリティが
オルタナティヴな感傷さとの相性が良い。
エモーショナルな音が好きなのと重なる。

彼が音楽で身を立てると
僕と同じ意志を持っていたなら、
僕らの世代のオルタナティブな
ジョンフルシアンテな立ち位置は彼のモノだった。

だから単純に見たらそう理解するし、
今では僕=drowsinessであるが、
彼をdrowsinessの元メンバーで無く、
僕がパーマネントメンバーとしているのは
そう言う意味だ。

彼が弾きたいときに戻れる
実家の場所のような場所で在りたい。
そして彼を連れて行きたい場所もまだある。
Keitoくん、僕が14年かかってしまったタイムラグ、
君ならあっという間に埋められるから。

他所は今では「drowsinessの文学性や音が〜」
なんて言うのだが、
実はケイトくんや中学校の頃のメンバーなら
全く驚かなかったことだろう。
フライヤーの宣伝文の書き方が上手いと
好評だったのだ。

とは言え、こんな風になるともやるとも
思っていなかったし、
別の意味で最も下手なギタリストが、
それで身を立てるとは誰も思わなかった筈。





⑨:Opacity

日訳で「無透明」
僕らは「オパ」と読んでいる。
4曲衆のうちの1曲。

タイトルにアントニムを用いるのは
10代からだったが、
この曲は18歳くらいから
アコギで弾いていたモノ。
教則本が全く弾けないなかで、
出癖で弾いていたのがOpacity。
これだけはスラスラと簡単に弾けていたのだ。

しかし、Keitoくん曰く
相当変なコード進行らしく、
僕にはそれが全く分からない。
でも何とも言えない
オルタナティブロックになっているのが
摩訶不思議。

drowsinessのアンビエントなクリアさは
前述の楽曲とOpacityがあるから成り立っている。
この後のDear Vainなんて、
まさにOpacityな世界観と
筒抜けになっていると思うのだ。

この曲におけるリスニング環境の参考になったのは、
アメリカのインディーバンドLost & Foundsの
たった一枚の作品。
そのなかのBrave Yesterdayに
酷く感化されたのだ。
心の底から名曲であると
全人生を用いてそう思う。

去年3月の練馬シリーズで
約10年振りの2人のステージで
Opacityを演奏出来た多幸感は
何事にも変え難い時間だった。
(Keitoくん用に書くが、アレが最後ではないからな)

そして、音が多様化した今でも
ライブの節目だと思うときは
国歌斉唱の如くOpacityを演奏する。

僕が統合失調症から復活した
4年振りのライブの一番最初もOpacityである。
そして、コピーバンド時代の親友の
軽井沢での結婚式の大広間で弾いたのもOpacity。
その場でアコギにサインして
彼に壇上でプレゼントしたのも懐かしい。

見たくない景色も匂いも色も感触にも触れ、
荒み行く自分を全て否定することは出来ない。
何より、本当の純たる無垢には戻れない。
ビールの美味しさを知っては、
その味を知らない以前に戻れないことにも重なる。

しかし、Opacityのような
青春の瞬きへの感傷さや瞬きが
失われていない
14年を迎えられているのは幸せである。
僕ら2人の青春のアンセムの一つに
オリジナル曲かあることを誇りに思う。
何時迄も違和感なく瞬きを鳴らしたい。

















エピローグ

さて時間を経て文字を連ね始めると、
ふと思うことがある。

音を連ねる人として、できる限り多くの音を
世に残さねばならないということだ。

この頃、お蔵入りになった曲がうんとある。
ライブでも沢山やった曲も うんとある。
でも不思議なことに、
drowsinessの曲は古くならないどころか、
常にアップデートされていて、
どのタイムラインの楽曲を重ねても
drowsinessなのだから面白い。
通常はブツクサと色々あるだろうが、、

世の中を知りすぎてしまうと、
色々なモノが出来なくなりやり辛くなる。
最初も色々なことが「そもそも」出来なかった。
そのなかで諦めたことは、
楽器を上手くなるということだ。
逆に何が自分らしいかを
ずっと自問自答していた。そして今も。
それがdrowsinessらしさなのだと思う。
それを整理するのに未だに
時間を要しているのが僕らしい。



ヒロシさんの師の言葉は
まさに的を得ており、
僕は未だに
「音楽業界やアーティストの流儀や常識」
というものは全く知らない。
著しく抜けている。

でも、それを知らなくても
14年も活動くらいは出来る。
気づけば、自分が当初背中を
追いかけていた方々の活動が止まり、
僕の邪道で亜流な背中を見られる側になりつつある。

そして、この頃目標としていたお金という責任も
予想外に担わせて頂いているということ。
何となく作ったスクランブルエッグに、
そんな価値があるなど思っていないし、
僕は全くといって器用ではなく、
とてもアナログな極地の人間だ。
少なからず、僕が信じたスクランブルエッグの味は、
間違っていなかったのだろう。

僕が尊敬する師の言葉を借りれば、
「学生でルイ・ヴィトンを持つようではダメ。
学生は相応でなければならない。
何より曲を遺すこと」
其処に追加の私的解釈を加えれば、
「自分が個性になる」
(インフルエンサーを指しているのではない)
ことに向き合い続けるだけでいい。

事実としてずっと信じ続けていた。
ずっと長らく「自分の表現」で
感性を分かち合える人はいなかった。

気づくと、表現も感性も
考えも違う国内外の人々と
自分の感性を基軸に会話が出来て、
ずっとステージの向こう側だった方々とも話が出来る。
無意識にしては偶然が重なり続けた
今が最も人生で幸せであり、
その最大値が増え続けている。

話題を逸らさず本筋を沿って、
間違いなく言えるのは
心から大学生の頃に
2枚のアルバムを作ることが出来て
良かったということだ。
かつ、自分独りでは絶対出来ない
コライトを前提とした作品作りがあり、
独りの愉しみに年々気付けているということ。
間違いなく、ケイトくんという
最大の理解者が居なければ、
今の僕は無い。
お世辞ではなく、
間違いなく心底から謝辞が尽くせない。

まだまだ表現でやりたいことはうんとある。
まだ見せていない新しいdrowsinessや
挑戦したいdrowsinessもうんとある。

この文章を最後まで見届けていただける方は、
誰か名乗り出なくても
友達になる気がする。
音楽を通して、
感性の和を分かち合い続けて、
リスナー(最近では読者、聴者も)と
アーティストというコネクターを通して
友達が出来ればいいとずっと思っている。

いつかその友達という人々が
主義主張や派閥争いを超えて、
一同に介するパーティーでもやりたいものだ。
そのときが、drowsinessとしての成功なのだと思う。

引き続き、drowsinessという在り方をお楽しみ下さい。